愉快系

どぉでもいい感じの愉快な日常をお届け〜。具体的にはアニメ的な?

懐かしい本

自炊してたら、懐かしい本が出てきました。

『日本語の作文技術』本多 勝一 (著) 

 

文章の本は中学生のころからそれなりに読んでましたが、この本が最高峰です。っていうかこの本1冊読んでおけば、仕事で必要な文章力はカンペキ身につくと思います。

当時とくに感動したのが『読点(、)』の使い方を明確に定義していたことです。他の文章本は『音読して、一息つくところに打てばいい』なんて説明が圧倒的だったのに、本多さんの本はきちんと説明できている。

読点の打ち方一つで、文意が正反対になることすらあるんです。なのに『一息つくところで』なんて暴論極まりない。そもそも書き手に、むやみやたらと肺活量があったらどうするのよ?

それにしても、あれから十数年経った今でも販売しているとは! amazonレビューなんて71件もついてて星4.5です。ほぼ満点。

 

iPadに入れたのち序章をちょろりと読み返してみたら、冒頭から面白いことが書かれていました。(すっかり忘れていたなぁ)

『例えば「話すように書けばよい」という考え方がある。(中略)だが、この考え方は全く誤っている』(P.11から引用)

いやまったくその通り。ぼくはしゃべる技術をあまり訓練してませんが、なんどか講師をやった経験から振り返ってみるに、しゃべりと文章は技術体系がまったくことなります。

「話すようにかけばよい」と思っていたら逆に書けなくなるか、ものすごい稚拙になります。

文章はいわば独白ですからねぇ。独り言。「さぁ書こう!」と思ったときに指一本動かせなくなるのは『目の前にしゃべる相手がいない』という単純な事実を見落としているのが大きい。

文章は、『目の前に相手がいることを想像して』書くわけですから、使われる技術もまったくことなるわけです。そもそも、身振り手振りが使えません。声のトーンで相手の気持ちを察することもできません。メールより電話のほうがラク…というのはコレが原因。

 

もう一つ面白い箇所を抜粋。

『たとえばまた「見た通りに書け」という俗論がある。これなども「話すように書く」以上の暴論であろう』(P.16から引用)

『見た通りに書く』なんて抜本的に間違ってます。もはや何もかもが。まさに抜本的に。

そもそも、イラストだって『見た通りに描く』なんて出来ません。省略したり誇張したりしています。にもかかわらず文章で『見た通りに書く』なんてあり得ないでしょう。

ぼくは文章を書くとき──とくに小説は、頭ン中に明確なイメージがあります。アニメのごとくキャラやシーンが動きます。音も聞こえるし暑い寒いもあります。

これを見ているのが(つまり妄想が(^^;)面白くて小説書きはやめられない、といったわけなんですが、しかしこのイメージを文章に起こすときは、それなりにドタマをひねらねばなりません。

ドタマをひねるとは、技術を縦横無尽に行使するということ。もっといえば、文章の特徴を理解しているということです。文章の特徴を理解しているからこそ技術が使えるわけです。

では文章の特徴とは何か?

ぼくはコレが分からなくて、23,4歳くらいまでは、『ぼくが見たイメージ』を読者とどうやって共有するかで悩んでいました。で、あるときふと気づいたんです。

「ああ。そんなことは不可能だ」──と。

なので『ぼくが見たイメージの共有』はあきらめて(これをやりたいならそれこそ絵を描けばいいんです)、ぼくが見たイメージの『雰囲気』を伝えようと考え直しました。見た通りのモノはできるかぎり単純化・記号化して、そして目に見えないモノ…たとえば人の気持ちを丁寧に書こうと。

つまり、目に見えないモノを描写できることこそ文章の特徴なのに、『見た通りに書く』など出来るわけがないんです! 見たモノのその中身を書かなくて何が文章か!?

 

ふぅ。

と、こんな感じで、一人で勝手に盛り上がれるのも文章のよいところです(爆) 独白ですから。

ま、とにもかくにも名著です。

スキャン後、紙書籍も買い直しておきました。データが飛んじゃったり絶版になっちゃったりなど万が一に備えて。それくらい永久保存版です。

デスクワークする人のあまねくすべてが読んでおいたほうがよいでしょう。

文章は、あらゆる活動の基本ですから。